カゲキな内容になることは必須。
憧れられよ。
生徒からすれば、教員は「マジメに勉強した社会人」の例として映るはず。そんな対象が、結局土・日も休めることなく仕事に追われ、およそ人生を謳歌しているように見えなかったら、どうだろうか?
もちろん、部活指導が楽しくて、土日もそれをするのが楽しい!っていう人は、同じように部活が楽しくて、土日でもやりたい!という生徒と一緒になって、そこで人生楽しむのはアリでしょう。(それが現状の「部活動」という位置づけのもとである必要があるかは別として。)
一方で、例えば英語や地理の先生なら、長期休みに海外に行ってきて、「現地はこうだったよ~」なんてことを語って聞かせられるだけの、様々な意味での余裕があるといいと思うんですよね。
「学ぶと人生がこれだけ楽しくなるよ♪」という「これだけ」を、どこまで生徒に見せられるか?
案外、そこが教師の腕の見せ所なのかもしれない。
「学校」というシステムを壊してしまおう。
とはいえ、あたし自身も「学校教師」という立場を離れて、自分の才能を遺憾なく発揮する生き方に転向できたわけで。
冒頭のブログの筆者さんも、学校(少なくとも中学校)というシステムの中で戦い続けるのは難しいだろうし、その必要もないように思う。
そんな何かと物悲しい現状を変えるには、外側からそのシステムを上回る価値を創造して、学校による紙切れの信用価値を超えてしまえばよいのだと考えています。
具体的には、例えば中学校の英語の授業は年間140時×3年?知らんけど、とりあえず卒業すれば「それだけの学習を修了した」という証明が出されるわけです。
…が、その実態なんて
なんてもんでしょ(笑)
だから最初は「公的」でなくとも、「学校で勉強するより、Hirohito流の方が明らかに実力がつく!」という価値が広まっていって、学校以上の信用を作りだしてしまうことを目指していく、ということ。
携帯電話というものができて、子供たちが持つくらいまで普及したという現実が先立ってはじめて、校則の方がそれに対応せざるを得なくなったわけです。
Twitterや Facebookというサービスが生まれ、広まったことが、国によっては政治体制の転換にまでつながったわけです。
極論ではあるけれども、誰も現存の学校の価値など信用しなくなって、誰も通わなくなる(=全員が「不登校」)という「現実」が先立った時こそ、日本の教育が好転するタイミングになるのではないか。