Wednesday, 4 December 2013

外国語が必修であるべき本当の理由

11月の第5土曜日の恩恵を受けて、今週末に発行予定のメルマガはすでに原稿を書き上げた。(〆切に追われる週刊マンガ家のようなサイクルから脱するために、あたしも必死なのである(笑))

今回からしばらく、テーマは日英語比較。第1週はもちろん発音ですが、こう、テーマを決めるというのは、書く側としても楽しい♪ということがわかりました(・ω・)/

さて、本題。
まぁ、小学校での英語お遊戯活動が必修化とかいうのは、俗世間の由無しごととして本記事では特に扱いませんが、(別に英語でなくとも)外国語は義務教育で必修たるべき、論。

役に立つかどうか?

幸いにして…と考えるべきか、英語というのは数学や古文・漢文などの他教科に比べて、中高生が「こんなん勉強して将来何の役に立つの?」と challengeしてくることの少ない科目ではあるかと思います。
それはつまり、「英語は身につければ役に立つ」という前提があるわけですが…本当にそうなんでしょうか?現状からして、英語などの外国語で発信される情報というのは比較的には迅速に日本語に訳されて利用可能になっているわけで。実用的なことだけ考えれば、何も必修でなくとも興味のある生徒を少数精鋭で鍛えた方が効率が良い、とも考えられるわけです。

「ことばへの感覚」を育む

社会的な効率など度外視してでも、中味のしっかりした外国語教育は必修にした方が良いであろう、というのは、母語でのやり取りでは一瞬で済むような、しかしそれ故に気づくこともなく通り過ぎてしまう細やかな「ことばへの感覚」を養うことができるから、という点にあるとあたしは考えます。
(何が主語で、どの語とどの語がつながっていて、文章・発話全体の構成はどうなっていて…なんて、母語だけ使ってたら考えを巡らせることはまずないでしょ!?)

ワカラナイ前提から出発して、もしかしたらわかり合えない危機感の上に立って、それでもわかろう、わかろうとしてやっと少しわかった―くらいのことが、本当に血肉になるのではないでしょうかね。

☆Here is the Path to Wonderland★

「おらが村が一番」かどうかは、村を出てみて初めて理解できる。
日本語の美しさや面白さは、日本語を出てみて初めて理解できる。