昨日の筑波英語教育学会での「沖縄の英語教育における異文化接触の足跡」という講演で、特に印象に残ったお話。
歴史的背景を考えれば、沖縄の英語教育は、米軍がある種「支配の道具」として発展させてきたという部分も色濃くある。
そのような中、沖縄という地で英語を学び、アメリカに留学して修士・博士を取得されたご経歴を持つ喜納先生が、このように仰っていたというところで言葉の重みを感じました。
自分の置かれる環境というのは、多くの場合、様々な偶然の産物であり、なかなか自分ひとりでコントロールできるものではない。
しかし、その環境から得られたものを、どう使っていくかは自分で選択できる。
英語は「敵性言語」と教えられた世代もいれば、焼け野原となった地を復興させるための知識・技能を得る手段として英語が必要だった世代もいる。
さらに新しい世代においては、自分の可能性を広げる翼として英語を役立てていける。
現代でも、国際語としての英語の台頭が、文化の破壊に繋がっているという側面も否定はできないだろう。
それを拒み続ける選択もないわけではない。しかし、喜納先生が仰るように、自分の文化的アイデンティティを対等に発信していくために英語を極めるという道もある。ガリレオはそちらの道を進みたいと思うし、同じ道を進まんとする人に、自分の知識・技能が役立てば良いと思う。
改めて、なぜ自分が英語を学び、英語を教えるのか?ー原点を見つめ直す機会を与えてくれた講演でした。
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